当院の特徴

「整体」について (我が国の徒手療術(法)略史)

「近代日本の民間徒手医療」

 

 日本には今日“療術(法)”“整体”などと総称される様々な民間療法が、非常に古い時代から存在していたようです。
 
 それは西洋医学そのものも今日ほどの臨床能力が高く無かった時代、昭和初期頃までは国民の健康を担うものとして認知され、それら民間療法はその効果から国民から大変信頼を得ていたようです。
 
 そうしている内に西洋医学は科学の進歩とたゆまぬ研究によって、その効果を増し民間療法を上回る信頼を国民から得るようになります。
 同時に民間療法では後述しますが、その技術の伝承が大変難しく近代の様々な社会的、歴史的経緯によって伝承が途絶え始めます。
 
 なぜ、伝承が難しいかというと、もちろん習俗的な意味で徒弟・相伝制度も一因ですが、単にその法そのもの習得の難しさもあったようです。(その難しさゆえの徒弟・相伝制度ともいえます。)
 さらに追い討ちを懸けたのが先の大戦で、これによる伝書の焼失、伝承者・継承者の死去などです。
 
 これを憂慮し、日本国中の療術を自らの足で探索し収集し、1つに纏めようとしたのが野口晴哉先生でした。
 野口先生は「整体操法制定委員会」を組織し昭和18年12月から翌年の昭和19年にかけ、同委員会で7ヶ月審議を重ねた結果
 それらを【整体操法】としてまとめます。

 そのあたりのことは『整体操法読本 巻一』に
 「整体操法制定委員会は昭和十八年十二月設立し、昭和十九年七月迄毎夜の論議を経てその基本形を制定し、同月の東京治療師会役員会に発表し、全員一致の支持を得て之を東京治療師会手技療術の標準型と決定したのであります。ここに手技療術の新たなる発足が始まったのであります。個人のものから団体のものに移り、いろいろな角度からいろいろの検討が行われ、日一日しっかりした足どりになりましたことは、その後一年経た頃には大改訂行はれ、第一回制定のときとは面目を一新してしまったことで、その後も連日多数会員の協力が加わって進歩向上しつつあるのであります。独特の殻を破った手技療術の歩みこそ他のいろいろの療術の範をなすものであります。尚第一回の整体操法制定委員会は、野口晴哉(精神療法)を委員長として、次の十三名の委員によって構成されていました。梶間良太郎(脊髄反射療法)、山田信一(オステオパシー)、松本茂(カイロープラクティック)、佐々木光堂(スポンデラテラピー)、松野恵造(血液循環療法)、林芳樹(健体術)、伊藤緑光(カイロープラクティック)、宮廻清二(指圧末梢療法)、柴田和通(手足根本療法)、山上恵也(カイロープラクティック)、小川平五郎(オステオパシー)、野中豪策(アソカ療法)、山下祐利(紅療法)、その他に美濟津貴也(圧迫療法)他三、四名の臨時委員が加わりました。」
 とあります。
 
 しかしながら、野口先生はこのように民間療法の統一を図りながらも、様々ある民間療法をそのままの形で残そうとも考えられ、そのように法制化運動を行ったようです。
 しかしその試みは成功せず、「整体」という言葉だけが広く普及したようです。
その後、社会構造の変化にともない柔道整復師や按摩マッサージ指圧師など一部を除いて民間徒手療法は法律外のものとなり、結果多くの国民にとって「よくわからないもの」「あやしいもの」になってしまいました・・・。

 

つづく

「日本中世・古代における医療救済」

 

 すみません。工事中です。。。

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